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月別アーカイブ: 2015年7月

代行 大阪市

運転代行なら、安心して 任せらせる ドライバーが 沢山いてる、
アート運転代行大阪に❗️
勿論 保険も完備していて安心です。
営業エリアは、大阪市内の中部 北部です。

北区南森町

私事ですが、まぁ、今までに適当にブツクサのたまっていたのですが、文責担当は昔、劇団に所属していました。
うちの劇団の得意演目は『カッコーの巣の上で』でしたが、まぁそれは一先ず置いといて。

弱小劇団とか売れない役者と謂えば、定番なのがアトラクションショー。つまりは着ぐるみです。
文責担当はタッパがあったので、大抵はヒーロー役でした。
銀色の宇宙人やら仮面のバイク乗り、メタルの装着鎧のヒーローを色々と。

ちなみに、業界用語でヒーロー役は「シン」と云います。舞台で「真打ち」とか言うでしょ。後は、中心とか芯とか謂う説もありますが。
ついでに謂うと、ヒーローのお面、マスクを「ヅラ」と云います。面=ヅラですが、顔を覆わないものでも頭に被るものを総じて「ヅラ」と云います。
鬘のヅラとはちょっとニュアンスが違うのですが、繊細な方や微妙な方にはなるべく水を向けないようにして下さい。

処で、『ヅラ 部長』で検索できるスレをご存知ですか?

天王寺区四天王寺

七が日本人にとって忌み数である。
古来より尊ばれていたのは、四、八、十二、三十六…等々ですね。
四天王、八大明王、十二神将、三十六菩薩…有り難みがありますね。
見事に偶数です。
ちなみに、四を「し」=“死”と忌み嫌いだしたのは、実は結構近代なのです。

それに対し、七ですが、ラッキーセブンの言葉通り、西洋文化です。

“素数”というものは、洋の東西での扱いが違うのです。所謂「孤独の数字」というヤツですね。
独立独歩、個人主義の西洋では有り難く、
和と合の精神の東洋思想では仲間外れと見なされるわけです。

自分に取っての“ラッキー”な数字とは、個人に寄って違うと思われるので、良く考えてみましょう。

ちなみに、宗教に寄っては階級が入れ替わってたりするのですが、
天使は七つの階級(階呈)に七大天使というのが殆どです。古い時代には三大天使だったとか。
で、宗教絵画では有名な話ですが、天使の翼の羽というのは猛禽類のソレだそうです。極々近年に描かれたものにはそうじゃないものもあるそうですが、ね。
ちなみに、八大明王では敢えてぼやかしたのですが、五大明王という括りもあります。八大になると密教に寄って違いがありますが、五大明王というのは見事なまでに憤怒尊です。“明王”という役割を体言した実践選抜部隊なわけですね。

港区弁天

“七”という数字は日本人にとっては忌み数です。
古来、験を担いでいた人は忌み数である七に一つ足した“八”を有り難く思っていました。不完全なモノに一つ加えて“完全”を見るのです。

それを踏まえて、「七福神」ですが、
乗ってる“神”が禍つ神、悪鬼だという説があります。

「福の神」と謂うには無理がある毘沙門天。武神です闘神です。多門殺です。
大黒さまは大暗黒天、インドの暴れん坊神の別名です。
弁天さまは訶莉帝母と同じ出自、鬼神です。裸で琵琶を弾きます。
ちなみに、この三天の集合仏「三面大黒」は武将徳川家康の護り仏です。武士の加護神です。神だか仏だかややこしいです。

長くなりましたので最後に恵比寿さんを取り上げますが、
“夷”というのは侮蔑言葉です。蛮やら狄と同義です。
“蛭子”というのは、国産み神話に於いて最初に産まれ落とされながらも「よくないもの」とされて海に流されています。

残りの三人は、いずれ機会があれば。まぁ、これ迄の傾向と似たり寄ったりです。まぁ、出自不明とか、なンでいンの?アンタ、みたいな方も居られますが―。

はてさて、「七福神」の宝船とは、一体ナニモノなのでしょうか、ね。

西区立売堀

大阪には結構難読な地名が多いですね。
よく取り上げられるのが、「杭全」や「喜連瓜破」、「十三」辺りですかね。しかし、読もうと思えば、云われてみれば納得できる地名と思うのです。
しかし―、「立売堀」は正解を聞いても、どうにも腑に落ちません。どうですかねぇ?

処で、滋賀に「酢」って所があって、交差点の名前にもなっているのですが、初めて見た時は噴きましたね。
兵庫には「神呪」って地名がありますね。なんとも神をも怖れぬ名前ですが、近くには「門戸厄神」があります。
ちなみに、「清荒神」もそうですが、基本的に日本で祀られてる神様って、○り神なんですよ。そも、超越的存在を崇め奉って、○らないで下さいとお願いしてるのですね。“崇める”のと“祟る”のは因果の故なのですね。
あ。
伏せ字にしてないッッッ。

処で、「喜連瓜破」って、なンかや●しいと感じる文責担当は若いですか?

ちなみに、「荒神」と名乗るのは一柱のみ。凄神だけです。

東住吉区駒川

作家が、話を創る上で自分の都合がいいように強引に展開させる作品。
駄作です。
いや、多少強引な展開でも勢いがあって面白い作品はあります。
なンというか、精神的に追い込まれた人が「こうするしかない」的な袋小路思考を強請する作品が駄作だと思うのです。こうするしかない、他の道はないのであっちこっち見たり考えるのは止めてェな的な話の展開が赦せませぬ。
もう少し述べますと、別に袋小路思考の強制的展開が悪いわけではなく、如何にして袋小路思考に陥ったかの、納得のいく説明があればよいのです。
突如これ迄構築され確率されていた人物キャラクターが今までには考えられないそぐわない行動を取る。何故そのような行動をしたかの動機が不明であやふや、曖昧なままで無理矢理話が進まされるのは頂けませぬ。

よく、「キャラクターが勝手に動いて言うことを聞いてくれない」、「このキャラクターはこういう行動はしない」(ので話を変えた)的な話を聞きますね。
「ここでこのキャラクターがこうしてくれないと、考えた展開に繋がらないから…」と、作家に無理に行動を強制したキャラクターは憐れです。その話は無惨です。
“作者の考えた話の展開”の為にされた矯正により、結局それまでの繋がりが断たれるわけですから。
まぁ、ある意味で作家の方が追い詰められてるのでしょうかね。

前置きが長くなりましたが、
清水義範の『ランドルフィー物語』と作品があります。
―かつて世界は神に認められた王の元、一つであった。が、一つの悪意により、王の頭を飾っていた冠より宝石が喪われ、世界は分裂した。神話の時代より数多の年を数えて、一つ国に王の庶子ランドルフィーが立った―。
神の子ランドルフィーは世界に散らばった神授冠の宝石を手にする度毎により強力な加護を得て、ランドルフィーが宝石を掲げて神に祈れば奇跡が起こり、困難を越えてゆくのですが、
ランドルフィー困る→神に祈る→奇跡起きる=解決(×繰り返し)でサクサクサクッと話が進みます。非常にご都合主義的展開です。もう少し悩めよと突っ込むぐらいに、困り事があるとすぐに石を掲げます。間髪入れません。
まぁ、人身の及ばざるが如く、一応、時と場所は弁えてますが―。
―しかし、この奇跡にはキチンとした因果関係があります。世界を再び一つにすべき使命を帯びた、神に愛されたランドルフィーが石を掲げて神に祈れば、神は奇跡を起こすのです。作者がそのように設定したので絶対なのです。コーラを飲んだらゲップをするぐらい確実なのです。
ですので、ランドルフィーの手から宝石が失われたならば、いくら願っても奇跡は起きません。
この法則は絶対で、作者と云えども逆らえません。作者の都合で螺曲がったりしないのです。王の定めた法律には王も従うのです。王の都合で法律を変えてはならないのです。